
世界の過去の一世紀、人類は飛躍な科学技術発展を生み出してきた。人間社会が著しく強大化し、破壊力を増していることに連れて、意外な敵を招いてしまった。人口急増、高度工業化、大量生産大量消費が自然環境に重い負担をかけ、やがてさまざまな“人類の危機”と思われる事象が現れてくる。Do Not Shake はこの人類文明に対する赤信号の存在を示唆し、われわれの無意識的な行動について探っている。

主人公(傘晴)には心に決めたルールがあった。それは「雨は傘で守る」。その雨は物理的な雨だけでなく心に降る雨も含めてである。そして、傘晴は多くの人にも傘を配ることでその人たちを救えると信じ、毎日傘を配りつづけていた。人の心の中に降る雨からその人を守るために・・・。渡された傘は女とゲイと兄達を、心に降る雨から守ることができるのか?傘晴と愉快な親子によって形作られる青春的な映画。

時々、酒を飲みながらどうでもいい難しい話をしゃべることがあります。そんな話は日常生活で何も役に立たないですが、なんとなく楽しい気分になります。SFを読むということはそんなちょっとした酒の肴みたいなものなのでしょう。
小松左京のSFが好きで、そんな感じの映画を撮ろうと思ってこの映画を書き始めたら、なんだかよくわからない別物になっていきました。まあそれでもいいや、と思って撮影を始めたら、さらによく分からない別物になっていきました。まあそれでも、誰かがこの映画から、SFを読んだ時の世界をえぐりとったような錯覚を感じてくれれば幸いです。

民主主義社会においては、選挙の結果によって政治的意思の達成の可否は大きく左右される。それ故,政治的意思の達成を確実にするために、選挙における投票行動を制御するための政治結社つまり、政党や圧力団体が形成されることになる。(中略)このようなことが起因して、選挙とパワー(権力)バランスとは密接な関係を持つようになり…(中略)…そして、同様のことが人気投票にも当てはまり・・・という高尚(?)なこととこの映画を結び付けて考える人はもう超えてはいけない一線を超えています。

僕は小さい頃、野球選手に憧れていました。祖父を相手にガレージでよく野球をしました。打てなければ癇癪を起こし、町内に響き渡るほどの大きい声で「じじいのあほー!」と当り散らしました。綺麗に打てれば、喜び勇みプロも夢ではないとの思いを胸中に抱きました。無理でした。西武ライオンズに入りたかったこともいつのまにか忘れています。
西武の松坂投手が激太り、と報道された時期があります。実際、太った映像を見て僕は大笑いしました。野球解説者がやせろというのを聞いて、当たり前のことだとまた笑いました。
ただ、彼は太ってもマウンドに立てます。僕はやせていますがマウンドに立てません。打たれてデブだとかいう罵声は聞かずにすみますが、どことなく空しいものです。松坂世代であることもまた、さらなる空しさを誘います。

京都から地元に帰っていたある日、私は両親と一緒に、父の友人の営む洋食店に食事に行った。目立たないビルの奥にある小さなレストランだったが、以前から私達のお気に入りだった。しかし、そのころには閉店が決まっていた。
代金を払う母を私に、父の友人であるシェフは「また来てね」と静かに微笑んで言ったのだった。先に店を出た父を見送りに行った奥さんの、相変わらずの元気な笑顔は涙でぬれていた。
昔と変わらない、人々の笑顔。でも昔とは何かが違う。
過ぎ去った時間はどこへ?
幼いころ思っていた。今自分をとりまくこの世界はすべて夢で、目が覚めたら私はまだゆりかごの上の赤ちゃんなのかもしれない、と。

最近やっと気づいたことがあるんです。人は見かけによりません。悩んでなさそうな人ほど悩んでたりします。でも、人は見かけによるもんです。悩んでなさそうな人は悩んでません。ややこしいです。ようするに人それぞれなのですね。当たり前ですね。十人十色とはよくいったもんです。そんな事表現している映画には観えませんでしょ。
あいたたたたた。
それでもいいんです。作品の捉え方も人それぞれですもの。あなたのお好きなようにお楽しみください。

この映画は安アパートの一室のみで展開される短編密室劇です。密室劇にすると「映画」の魅力を半減してしまいそうですが、密閉された狭い空間内の息苦しさが、薄い物語に厚みを加えてくれるかも、と思ったのです。もちろん、本作に本物の油虫は登場しませんから虫嫌いの方も安心して御覧下さい。

この話は、僕が高校生だった頃に考えたものである。きっかけは、夕方、駅から自分の家に帰る途中、病院の裏口から遺体が出てくる光景を目にした時のことである。その病院は僕が小学生の時に祖父が息を引き取った所だった。
この時、僕は祖父のことを思い出し、無性に悲しくなった、と同時に友達を見舞った時に出会った、ある女の子のことを思い出した。彼女は同い年だったが、小学生ではなかった。一年以上も入院していたからだ。彼女は点滴を首にしていた。その後、祖父が入院した時に担任の教師から聞いた話だが、首に点滴をしている場合、病状はかなり悪いらしい。自然に考えれば彼女が生きているとは考えにくい。この話を聞いた時、僕は彼女のことを心の奥にしまいこもうとした。だが、彼女のことを思い出したとき、物語を書きたい衝動にかかれた。ヒロインには彼女の名前をつけた。「ユイ」と。そんな恥ずかしい話です。

今回の作品は伊藤高志『SPACY』を見た時の自分の中での初期衝動を映像化したいという思いから製作に乗り出しました。劇映画以外の作品創るのは初めてで、台詞はなく、出来るだけ削ぎ落としたカット数の映像群と音響でいかに物語っていくかを熟考し行動し、組み立てていきました。コマ撮りの肉体的思考反復というモノから生じた腰の悲鳴の果てに見てくださった方の頭の中で軽い悲鳴が起こったならば、それはその行動は特殊解であれ正解だったと思えるかもしれません。拙作ですが宜しくお願いします。

主人公は、夢と現の間を行き来しながら、逃げ去った女や、忍び寄る未来や、世界の終わりや何かについて、ほんのり実存主義風味で思いを馳せます。