
いきなり私事で申し訳ありませんが、実は私、今年の4月に事故に遭いまして。わき見運転による自損事故だったんですが、車のボンネットがV字型に凹んで、頭がフロントガラスにヒビを入れるくらいの大きな事故で。
幸い軽傷で済んだんですが、がっちり縫われて赤く腫れ上がった自分の口を見て「あ、これは使えるんじゃないか」と。で、前から構想を温めていた脚本に「天使の話」を加えた作品=「ソフィア」クランクイン、と相成ったわけです。
天使、天国。そんなもの信じないって人、たくさんいると思います。
でもよく考えてみたら、天使は60億人もいるし、天国だって60億ヵ所もあるわけですよ。
映画の中の登場人物が生きているのか、あるいはそもそも天子は生きているのか死んでいるのか、そんなこと考えるのはナンセンスです。
この映画を見終わった後、あたりを見回してみてください

クランクインの3日前、主役の浜田さんがバイクで事故ったという 知らせが届いた。急いで病院に駆けつけたところ、右目と鼻にガーゼを あてた彼は照れ笑いで僕を迎えてくれた。
「気合で治すから、もうちょっとまっとってな」
行きの電車の中で、主役の交代や撮影の中止を考え不安になっていた僕は その言葉を聞いて決心した。この映画は絶対彼と撮るぞ、と。
3週間遅れのクランクインだったが無事に完成。撮影を振り返ってみて、 この映画は彼なしでは完成しなかっただろうとつくづく思った。
あの日、病院の渡り廊下で、包帯を巻いた手を振って 僕を見送ってくれた彼。
その三週間後、金髪のズラでコントに出演するなんて想像してなかったんだろうな…。

記憶には、人に宿るものもあれば、物に宿るものもあります。私にとって「映画」というのもまた、記憶のひとつの形式であります。1本の映画の中に、製作者の記憶、出演者の記憶のみならず、それを見た人たちの記憶や、登場人物たちの記憶がひとつに混ざり合い、結晶化して、やがてひとつの集合的な記憶となります。それが映画だと、私は思います。

映画の町といわれてきた京都は、大学の町でもあります。しかし、京都には映画制作を専門にやる学校はほとんどありません。それでも映像の自主制作に携わる学生は多いのです。彼らはなぜ映像に向かうのか?そんなことをインタビューしつつ、自分の制作姿勢をみつめなおすという趣旨ではじめました。
ドキュメンタリーとは猫のようなものです。いままでぼくが作ってきたドラマ作品はさしずめ飼主の意図通りに動く犬でした。監督の思い通りになってきたのです。しかし、猫はこっちの言うことを聞かないばかりかきまぐれに好きなところに行ってしまいます。この文章を書いている今、作品は完成していませんが、実際どういう作品になるのか飼主のぼくにもよく分かりません。困ったにゃんこ。
しかし、飼い慣らされた犬よりも野良猫のほうがたくましそうです。語られる言葉は真実であり、その瞳は本物です。そこに共感していただければ幸いです。京都の猫達にべんぴねこが挑む。こたつで丸くなっている場合か?!

おさむは、なんだかわけの分からないときにわけの分からないものに異様に固執するクセが昔からあって、そういうのはあまりよくないことが自分でも少しわかっているのだけれども、何か具合の悪いことが起きると、誰かのせいにするのもそんなに得意じゃないから、ただ沈むことが多くてそれを口実に自分は暗い人なんだと思い込もうとするつもりが案外それもうまく行かずに、あいつまたやってるやってるくらいに思われて、あきれられるのが大抵だし、本人も自分を嫌いになろう嫌いになろうと努めるんだけど、実はそんなに嫌いじゃないっていう、そんなおさむはやっぱり悪い男でしょうか。

今回の作品は高校時代に習った話をもとに作りました。 構成を考えている段階で話の読み解きなのか、 自分の作品に対する意味付けなのかどんどん深まっていき客観的に見たときに、はたしてこれは伝わるものなのかと不安になりつつも、 進めていきました。
自分の中では、この作品のテーマとすべきものは、 まだ手を出すものではなかったかなと後悔したり、 抽象的に描き過ぎたのではと思っています。
こんなこと見せる前から言うなよ。って思うかもしれませんが、言いたい気分なんです。
現段階では編集真っ最中でパソコンに向かう度に、 自分の意に反した映像がプレビューされ、映画の厳しさに直面しています。
その中でも次の作品に向けての制作意欲が湧いてきたりと、映画というものは、なんとも憎いやつです。 この作品は、そんなサイクルにはまっている人たちが集まるシネ研で生まれました。

なぜ、タイトルが神様になったのか?わからない。いや、わかるはずがない。ごまかしているだけだ。
僕は、よく、ごまかそうとする。いけないことだ。
本当にいけないことか?わからない。
いや、わからないはずがない。ごまかしているだけだ。
ぼくは、よく、ごまかそうとする。今も、そうだ。
字数を、ごまかそうとしている。今、何字だ?150字過ぎたところだ。いや、午後6時過ぎたところだ。こんなことでいいのか?いや、よくない。よいはずがない。
何がよくないって、ごまかしきれていないところだ。多分、ごまかしきれたら、オッケーなんだ。
あ、時間切れ。これで、自分は、ごまかしきれた。
多分ね…。

マコトくんちから金の招き猫が盗まれたって?そうだ俺(バカオ君)のトモダチのマコト君の物=金の招き猫が盗まれたんだ!さっそくマコト君の家に行ってみれば、日本で一番エロイと言われる女・愛肉代がいる。そうこいつは色々なことをワカってる、知ってる。だから呼ばれたんだよな。今から俺たちの大捜査線が始まる。こんな感じでやってくのでよろしくお願いしま~す。
始まりは上記なんだけど、そこからどんな場所に着地するかはまだわかんないんだ。でもたとえば木の板をのこぎりで切る時のように、行ったり来たりをくりかえしながらも着実にゴールに近づいていく、そういう雰囲気が大事なんじゃないかって最近思ってます。

「子供は人生の達人である。」という言葉をたまに聞く、気がする。もしそういう言葉が本当にあるとしたらそれがよく現れているのが「公園」だと思う。そんな様なことをなんとなく考えていたので、それを映画にしてみることにした。。事実、撮影現場にいた子供たちはいろんな意味で達人だった。が、実際にあがったフィルムを見てみると、どうもトイレ映画になってしまった気がしてならない。そんなことを考えながら、公園デビューならぬ、(学生映画)監督デビューの僕は今日も編集に追われるのであった。

主人公パポは岩に会いに行くという旅の途中で、それぞれの出会いを待つ、様々な人達と出会います。パポや彼らが住んでいる世界というのは、現実とは異なるものかもしれません。偶然が溢れていて、自分と他人との距離がすぐに近づく。ちょっと視点を変えれば、すぐに出会えそうなのに、現実にはなかなかうまくいかない、そういう世界です。
ちょっと視点を変えることで、見慣れた風景がその姿を変え、物語を持ち始める。この作品は、主演の東美香が創作した詩や物語あるいは空想を、僕がひとつのストーリーにまとめ、映像化したものです。音楽は、劇団南航路などにも楽曲を提供されている、柴田悠氏(スタヂオh)がこの作品のために書き下ろしたものであり、劇中歌『出会いの色』は東の友人である和田聖月さんに歌ってもらうために、東が作詞、柴田氏が作曲及びアレンジしてできました。聖月さんをはじめ、多くの出演者のみなさんがこの作品に素敵な彩りと深みを与えてくれています。―この作品が、偶然のような偶然でないような出会いの折り重なりで生まれたように、これからまた多くの出会いを結んでくれることを願って。

人間というものは退屈だと感じると刺激がほしくなったり違う世界に足を踏み入れてみたりしたくなることがあります。
この映画は現実に退屈している女の子と現実感のない女の子の物語です。二人がであったことで、彼女の、――いや彼女らの部屋は切り取られたひとつの世界になるのです。
しかし、それでも地球は回っているし、それでもどこかで人は死に続けるし、それでも私たちはお腹がすくし、それでもまた朝はやって来るのです。
この作品の主人公は、もしかしたら私であり、あなたなのかもしれません。
――協力してくれたすべての人々に感謝を込めて。

5年もやっているといやでも気づくことだが自主映画に未来はない。過去もない。あるのはいつもぼんやりとした思い出だけだ。なんだか結局酒のつまみじゃないか。つまんない。
誰もがそう思っていた2000年12月、とてつもないボムが落とされた。人知れず上映された神のような映画「ポッパーズの恋」。商業映画と自主映画のはざまで迷う人々にそういう区別はもともと存在しない、と断言する快楽が画面にみなぎっていた。震えるほど感動した。上映時間以外には何のレスポンスも期待しない。まるで上映されているときだけ世界が真の存在になるのだという確信。なんという無償性。ほとんど求道者だ。そして存在していて存在していない世界、それを人は映画と呼ぶ。

私は、「マカロニほうれん荘」という漫画が大好きです。 それは、主人公二人がただひたすら派手なばか騒ぎをするという内容です。
というよりも、ギャグものはえてしてそうだけれど 彼らの行動すべてが、途方もないばか騒ぎという重みも湿気もない、絶望的に無機質なものの中に吸収されてしまうのです。ピエロが舞台裏でこっそり流す涙や、ばかもやるけどちゃんとしたところではちゃんとやれる若者の人間的な正しさのようなものはここには全くありません。気が遠くなるくらい間違ってる、ただそれだけです。
だから、私はこれを読むと寒々としてしまうのですが、同時になぜかとても 懐かしいような、晴れ晴れした気持ちになるのです。大げさだけど、自分よりずっと大きなものにものすごいスピードで近づいていっているような。
そういう気持ちになれるものを自分で作ってみたくてこれを作りました。

この映画は説明するに値しません。くだらないのです。たとえばネコが気持ちよさそうにヘイの上を歩いている、そこに落ち葉がはらりと一枚、ネコの額にそっと離れる。しかしネコは気にもとめずまた気持ちよさそうに歩いていく。そんなどうでもいいことを言葉にして役者さんにイッテモラッタダケノ映画です。真剣に構えてみるものじゃない。くだらないことなのです、主張というのは。書くことがなくなりました。所定の字数に足らないので何を書こう。以下ツレヅレなること。
お竹さんは呉服屋の長兄に嫁ぎました。長兄といえば先代の築いた巨万の富を一代にして使い果たしたよくありそうな放蕩者です。お竹の家は吉川村にあり、その村の人間は等しく皆貧しかったのですが、お竹の家は特に貧しくお竹にとって呉服屋に嫁ぐなど玉の輿も玉の輿、これ以上の幸せはないといった様子でした。呉服屋にはハツというばあさんが…。
所定の字数に足りたので終わります。また会う日まで、お元気で。

「優しい生活」―そもそも「優しい」という言葉ほど曖昧なものもない。監督である僕自身もその意味はよくわからない。でもだからこそそこには可能性があるのではないか―
僕はその可能性を信じて、あえてその曖昧なところからスタートしました。
自分の作っていうる作品が果たしてどこに向かっているのか、ひょっとしたらこのまま壊れてしまうのではないかという不安にさいなまれながらも、「優しい生活」というただひとつだけ確かな言葉を頼りに、ここまで製作を進めてきました。
今ようやくイメージは映像として、音として形になりつつあります。しかしそれで終わりではない。
後は観客である皆さんが、その映像と音の作り出す空間に身を委ね、そこに何かしら刻みつけることによってはじめて、この映画は「優しい生活」として完結するのです。

おぶこくは映画系サークルに入ろうと決心し、あるサークルの戸を叩きますが、そこは怪しげな人の集うアウターゾーンへの入り口だったのです。

善を追及するものとして生まれた「おしメン」は、かつての恋人を奪った男との因縁の対決を迎える。
人は人を見て、でも、実は、見られてたりもしたり。
自分はそこを歩いているのに、それは実は現実じゃなくて、
ビデオテープの中だったり。気付いてないの?
え?私ってビデオテープの中に生きてたの?!
…傍観者かあ、やな奴~。
ねえねえ、どうやったらテープの中から出られる?
ゲームをクリアしたらね。
このゲーム、どうやって始めたっけ?
…てこれは、内容とかんけいないけど。
あ、これつくるのたのしかった。
私、映像の技術は
下手だし、別に映像の文野で上手く
なりたいとも思わないし、ただ、映画はつくるのは、
自己表現できる場だから、
そこで自分の好きなことしたいやって
思ったら、かくの好きだから、
脚本をベースに映画をつくろう
と思って。映像は脚本に付随
するものとして、つくろうと、今…。
だから、べらべら誰かがモノローグを
べらべらしゃべってるのを、見て聞いてね。
自分でアフレコしてて、ちょーつまんねー。とか
思ってしまった。長いって、つかれる、とか思ってた。
けど、そんなんはどうでもいいの。でき上がったら、ちがう
ものに変身するのさ、フフフ。あくまで自分の中で。
やっぱホラーは冬に限るでしょ。
さむい中、よけいにさむくなろう、こたつの中で。
さむい中アイス食べてるやつ、いるじゃん、よく。
それみたいに。
…それはいいとして、ホラーって、暗い夜の
かんじがして、冬は夜が長いから、
だから、冬にホラーを。
ホラーって恐くない?